バス釣りで先人たちに教わった、印象に残っている言葉
多くの先輩や友人、釣りウマなみなさまと釣りをさせてもらう中で、胸に強く残った言葉というものがあります。
どれも含蓄に富んでいて、自分より圧倒的に深くて高い経験値を持った方々の過去の経験がその言葉を産み出しているな、と。
言葉の主は明かしませんが、自分の備忘録や思い出すことも兼ねて、少し公開してみます。
自分の釣りの経験値に大きく影響を与えてくれた言葉たち。
なんらかご参考になれば。
「魚の気持ちになるといいよ」
闇雲に目に見えるストラクチャーに、直近よく釣れてたルアー(おそらくDワームのネコリグ)を入れまくるも、あまりにも釣れなさすぎて「どうしたら釣れるんですか…」と愚痴ってたときに言われた言葉だった気がする。
今も大して変わらん気もしますがw、この頃は完全に「釣れたスポット思い出巡り」に終始していて、「最近釣れてたルアー」に頼り切っていました。
なぜそこにバスがいたのか、そのバスは食い気があったのか、そのルアーやアプローチにバイトをしたのか、といったことを全く考えていなかった。
「この立ち木はいつも釣れる」「Dワームまじで神」
そんなことばっかり言ってたんで、ハイシーズンならまだしも、ちょっとした変化でかんたんに再現性は失われます。
案の定、まったく釣れなくなったときにその理由を考えずに愚痴ってたわけでありんす。
「魚の気持ちになれ」と言われても、なんとも狐につままれるような気持ちになりました。
「そんなん、なれるわけない!」とか、「なってるつもりだよ、ほらDワームおいしー!」とか、だからヘタクソなんだよ!って言われるべき思考回路。
その意味をちゃんと考えられるようになったのは、それから相当経ってからのことでした。
きっかけはなんだったか忘れたけど、水中の世界で生きる魚たちは、他のフィッシュイーターや川鵜などの鳥類、そして我々釣り人による脅威に常に命がけで戦っているということ。
だからこそ、とにかく鳥が入ってきづらいオーバーハングの奥だったり、人間がルアーを入れてきづらいヘビーカバーの奥に逃げ込んだりするんだな、と考えが及んだとき、なるほど…だから魚はこうしたい、こう動きたいわけか、と腹落ちしたような感覚を持てました。
熟練アングラーが集う亀山湖なんかは、ヘビーカバーの奥の奥にもパワーフィネスがばこばこに飛んできてロングシェイクされすぎて、魚たちも「これは食ったらあかんねんな」と学習している感じもします。
釣り人や釣法を含めた「フィールド」は常に変化していて、魚もそれに合わせて行動を変えていくんだなって、よく考えるようになりました。
そんな単純じゃないはずですが、少なくともそういう視点の入り口に立てたことは、バスアングラーとして小さな一歩、大きな成長の始まりだったなぁと思うのです。
へたくそが自分で大きな成長とかいってんじゃねーぞ。というツッコミをいただきたい😇
「いるなら一撃で食う」
「魚の気持ちを考える」に通ずることとして、「そこに魚がいるなら1キャストで食う」というお話。
そんなバカな、何度もアプローチしたら食う時だってあるじゃないか、と思った記憶。
重要なこととして「そこに【食い気のある】魚がいるなら、【そのルアー、そのアプローチが間違っていない場合は】1キャストで食う」という理解の仕方をしてからは、本当にそのとおりだな、と考えるようになりました。
言い換えたら、1キャストで反応がなかったら、いまそこにはそのルアーで食う魚はいない、と切り捨てるということです。
これ、めっちゃ勇気のいることです。
そんなこと言ってもしいたらどうすんだよ、追ってきてたのに回収が速かっただけかもしれないじゃん、と思いたくもなります。
亀山湖なんかは、ぶっちゃけ全域のどこにだってかなりの量のブラックバスがいるものと考えています。
ただし、その全てが「ルアーを食ってくるブラックバス」ではないという考え方です。
この考えに至ったのは、ライトリグにブルーギルが掛かっちゃって、なんとなくそのまま泳がせていたらデカバスがわらわらと湧いてくるシーンを何度となく経験しているからです。
ついさっきまでリアクションもフィネスもさんざんやって反応がなかった場所でも、弱ったブルーギルがいれば即座に反応して我先にと奪い合いにくるのは、何度見ても衝撃的です。
あまりにも適当な表現ですが、亀山湖に1億匹のブラックバスがいたとして、ある瞬間にルアーに食ってくる可能性のあるブラックバスは1000匹くらいなんじゃないかと。
数字はめちゃくちゃに適当なんですが、考え方として、です。
青木大介さんの著書「適材適所のルアーセレクト」に出てくる一文が痛烈に印象深くて
【「オレには釣れない魚だった」と考えよう】
へたくそな自分がこれを言うのはとても勇気のいることで…
どうしたって「負け犬の遠吠え」っぽく卑屈になってしまうから。
だけど、卑屈にならずにあの瞬間の自分の脳が下す判断では釣れなかった、としっかり考えることは、いわんや今後の己の成長につながるのだということです。
「あの日あの時どうしていたら釣れていたのだろうか?」と考えること。
それを妄想で終わらせず、近いシチュエーションで実践・検証していくことが今後の判断力を高めていく鍵なんだと考えるようにしています。
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「カバー撃ちって数撃ちゃ当たる、だから」
今でこそカバーで魚を釣れるようになった、というか、むしろ困ったらすぐカバー撃っちゃうようになれましたが、1年目はカバーがとにかく苦手でした。
こんなところに本当に魚いるのか?いたとして釣れるのか?と食わず嫌い的な感じで。
カバーって釣れるんだなぁ、と世界がひらけたのは、カバー撃ちの名手のバックシートに乗せていただいて、目の前でバシバシとフルフッキングを決めてクオリティフィッシュを釣って見せてくれたときでした。
その姿にあこがれて、本格的にカバー撃ちを練習し始めるものの、最初の1尾まではかなり掛かった記憶…
はじめてのカバーフィッシュが釣れてからも、なかなか次が釣れず、やっぱり自分はカバー苦手だわ…と距離を置いていたり。
「テキサスでドライブビーバー投げれば釣れる!」ってみんなが言ってるのを見ないようにしてました。
やらねばうまくならない、でもやりたくない、と嫌気が指しながらもカバーと向き合っていた時、カバー撃ちがうまい人になにげなく聞いた「カバー撃ちのコツって何?」という問いかけに、彼は「数撃ちゃ当たる」と答えてくれました。
今思えば、そのとおりでもあるし、ただ適当無闇に数を撃てばいいわけでもないんですが、この言葉で気付かされたのは、うまい人でも1日に何百匹とは釣れないという事実でした。
バイト数÷キャスト数で打率を出したら、上手な人は高い打率を叩くはずですし、無駄にキャスト回数だけを増やそうとはしないかもしれません。(とにかく数撃つスタイルの方もおられますが)
へたくそな自分の100キャストと、うまい人の100キャストは、かかる時間も得られるバイト数も違うでしょう。
しかし、うまいひとだって100キャストして99バイトあるってことはまあないのです。
もし同時に投げたら、打率の低い自分にはバイトがあって、打率の高いひとにはバイトがでないことだって当然あるのです。
くじけてる暇があったらキープキャスティングというポジティブな考え方は、とても重要なのだと痛感しました。
もちろん、1キャストの質を高める努力もセットです。
要は、うまくもない己がちょっとやそっと投げて釣れないからっていちいちくじけてんじゃねーよ、ってことです。